2020年1月5日、倉吉の白壁土蔵群を見に行きました。
10時半ごろ、赤塚白壁のバスで下車。まずは観光案内所に向かい「まち歩きガイド」を入手しました。
ここから、いろいろ巡っていきます。
10時40分ごろ、第五十三代横綱の琴桜像前で撮影。
琴桜像から一つ北の交差点に移動。
交差点の南東側の角には和菓子屋の「りんりんや」(15番)、南西側には「coup! la cafe」(42番)、
北西側には「元帥酒造」(40番)があります。写真はこの順番に撮っています。
和菓子屋の「りんりんや」は、マネキンの生首が少し不気味でした。
元帥酒造では、お酒を試飲しました。
少し西に進んだところに、令和の地元のちくわ屋さん「金田屋」(10番)があります。
軒先にはいろいろな物が並んでいました。
北の向かい側は「桑田醤油醸造場」(32番)です。
さらに少し西に進んだところの右手に、弁天参道があります。
ここを北に進み、大連寺に向かいます。
11時15分ごろ、大連寺に到着。
これから行く大阪の豪商淀屋とも、ゆかりのある寺のようです。
ここから西に進み、倉吉淀屋に向かいます。
11時40分ごろ、倉吉観光のメイン、淀屋に到着。
倉吉淀屋は、江戸時代の豪商である牧田家の住居で、大阪市北浜にあった材木商「淀屋」(大阪の淀屋橋で有名)から暖簾分けした店です。
倉吉の街で最も古い町屋建物でもあります。
倉吉淀屋は、1階の建屋内を自由に観覧できます。
入ってすぐ左手に板の間の部屋(ミセ)があり、番頭さんが座っていた帳場があります。
帳場にも座ることができ、道具も一揃え展示されているので、当時の面影が感じられます。
倉吉淀屋の2階の部屋が2箇所あり、片側の階段を上がります。ここには様々な木組みの展示がされていました。
2階は細長い部屋になっていて、木組み(継ぎ手)がずらりと並べられていました。
壁沿いには、牧田家の保存修理工事の状況と大阪淀屋&倉吉淀屋の略系図が展示されていました。
倉吉淀屋の前身は大阪淀屋で、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展させた立役者がこの大阪淀屋です。
大阪淀屋が幕府に訴えて全国の米相場の基準となる米市の設立したことが大きな要因といわれています。
大阪淀屋は、米の先物取引により莫大な利益を得て大金持ちとなりました。
その後、大阪淀屋から借金する武家がかなり多くなり武家社会への影響が大きくなりすぎたため、
大阪淀屋は1705年に闕所(けっしょ)処分となりました。
闕所処分により、大阪淀屋の財産没収されましたが、闕所処分の前に番頭が淀屋は倉吉に暖簾分け(牧田家・倉吉淀屋)
していたため難を逃れており、その後、その子孫が幕末に討幕運動に参加して復讐を果たすことになります。
備考:大阪淀屋が、中之島に渡るため自費で架けたのが淀屋橋で、全国的にこの橋の名前が有名です。
12時20分ごろ、土蔵そば(66番)で昼食を取りました。
土蔵そばは、創業60年以上の老舗そば店とのこと。
土蔵そばを出て南下し、しばらく歩くと左手に「久楽(くら)」(9番)が見えてきます。
ここを左手に折れ、川沿いを東側に進みます。
しばらく歩くと左手に「赤瓦1号館(長生堂)」(81番)が見えてきます。
館内を色々と撮影。鳥取県や倉吉を代表するお土産や特産品が数多く販売されています。
ここは、フィギュアなどを販売しているグッドスマイルカンパニーの出張所(赤瓦一号館)でもあるようです。
赤瓦1号館でお土産を買い、さらにしばらく東に歩くと左手に「お休み処よね」(13番)が見えてきます。
さらに東に向かい、何かないか散策します。
先には何もなかったので、途中で右に曲がり南下します。
突き当りの丁字路の北西側に「白壁倶楽部」(21番)がありました。
白壁倶楽部から西に進むと、右手に「日本料理・飛鳥」(20番)が見えてきました。
かに飯弁当がうまそうに見えましたが、昼食は食べ終わったのでスルー。
駐車場を挟んでさらに左隣には、はこた人形工房「夢倉」(19番)があります。
夢倉の向かい側には、タイ料理店の「鳥の杜」(85番)があります。
夢倉からさらに西に進むと、左手に旅するイタリア厨房「ムリーノ・ビアンコ」がありました。
右手の斜め向かい側には、家具屋の「オークランド」があります。
そのまま進むと、初めに来た「りんりんや」(15番)がある交差点にたどり着きます。
この後、しばらく倉吉の白壁土蔵群をさらにぶらぶらした後、湯梨浜でさらに1泊して帰りました。
かつて、この白壁土蔵群の北側には廃線となった旧国鉄倉吉線が走っていて、打吹駅跡地の近くに
倉吉線鉄道記念館があったようなので、今度訪れるときには立ち寄ってみたいです。